Cosmovitralとトルーカの画家たち2020年02月03日 15:49

トルーカの中心部にコスモヴィトゥラル(Cosmovitral)と呼ばれる室内植物園がある。
これは、以前、メキシコの独立記念日が名前として付けられていた、9月16日市場があったところで、1975年に市場としては閉鎖された。僕がメキシコに最初に行った頃は、もうすでに市場としては閉鎖されていたことになる。
その後、トルーカ出身の芸術家、レオポルド・フローレスの手によって、壁面全体と天井にステンドグラスで、人類の誕生から現在までを描いた壮大な壁画が描かれた。
googleの画像検索で、cosmovitralを見てみると、いろんな写真が出てくる。

https://www.google.com/search?sxsrf=ACYBGNQ9iJM_9h6-svYbL-YJYLT_57ccpw:1580712690702&q=cosmovitral&tbm=isch&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwin_67T5bTnAhWNH3AKHc9TBtYQ7Al6BAgHEBs

内部は、植物園になっていて、世界各国の植物が栽培されており、一角には、日本庭園もあったりする。
トルーカは、以前、浦和市と姉妹都市だったこともあり、浦和通りがあったりするのだが、現在は、浦和市がなくなってしまったので、さいたま市と姉妹都市となっているようだが、そんな関係もあって、日本庭園があるらしい。
もうひとつ、Eiji Matsduda(松田英二)という長崎生まれで、メキシコに移民した植物学者の銅像もあった。トルーカのあるメキシコ州に植物学者として勤務し、8千種以上の新種を発見したという。1978年にペルーで客死している。
僕が訪れたときには、ちょうどガイドの人がいて、ステンドグラスの詳しい解説をしてくれた。
コスモビトラルで検索すると、ここを訪れた日本人のブログが出てくるので、興味があれば、検索してみてください。
トルーカには、大学の一角にフローレスの美術館もあって、内部には、巨大壁画が描かれていた。日本ではあまり知られていないようだが、なかなか面白かった。
また、州政府の入っている庁舎にも、彼の巨大な壁画が描かれている。
州庁舎内部は、いかにもメキシコらしい壁画で埋め尽くされており、一見の価値はあると思う。一般人の出入りは自由とのことらしいの、機会があれば、おすすめしたい。

さらに、トルーカには、もう一人、日本と関係の深い、有名な画家がいる。僕も今回初めて知ったのだが、京成上野駅にある壁画の作者が、ルイス・ニシザワというメキシコ州出身の日系人画家で、トルーカには、彼のアトリエがあって、2014年に亡くなったあとは、そこが美術館となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%B6%E3%83%AF

いかにもメキシコ人画家という作風のものから、日本の墨絵のような雰囲気をもった作品などもあり、興味深かった。

トルーカには、もうひとつMuseo Torres Bicentenario(200周年記念塔美術館)というのがあるのだが、今回は、残念ながら改装中で中には入れなかった。建物は、メキシコ独立200年を記念して建てられたものだそうで、二重螺旋のような形をした2つの塔が建っていて、それぞれ100の階層になっており、合わせて200となるとのことだった。
調べてみると、元々、メキシコシティに建設される予定だったらしいのだが、計画が途中で頓挫して、トルーカに作られてらしい。

プエブラへ2020年02月08日 15:38


puebla03

トルーカの友人の家に世話になっていたのだが、そこの息子がプエブラに住んでいるってことで、プエブラにも行ってきた。
プエブラはメキシコシティーを挟んで、トルーカの反対側にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%A9
周りを高い山に囲まれている標高2100メートルの街だ。中でもポポカテペトル山は、現在も火山活動が盛んで、僕の滞在中にも噴火があり、火山灰が周辺の街に降ったと報道されていた。
街は、ユネスコの歴史的世界遺産となっている。

puebla02

街の中心部ある模型を見ると、碁盤の目に区切られた美しい街並みがよくわかる。

puebla01


面白いのは、通りの名前で、街の中心であるソカロ広場を起点に、東西に走る通りの東側がオリエンテ通りで、1oriente 2 oriennteのように何番目かによって数字が振られている。反対側は=西側はポニエンテ通り。北側がノルテ通りで南側がスール通りとなる。街の設立が1531年ということなので、これだけでもびっくりする。
僕が行ったときは、10月12日のコロンブス・デーの週末にあたり、街の中心部に舞台が設置され、
周辺に住む様々な民族の踊りが披露されていた。ラテンアメリカでは、この日をDia de La Raza=民族の日を呼んでいる。
スペイン人による征服のきっかけをつくったコロンブスのアメリカ大陸発見を祝うというのは、僕にはなんとなく理解しがたいものがあったのだが、この後に訪れたトラスカラとチョルーラで、なんとなく納得できた。
現在のべラクスルに上陸したエルナン・コルテスは、現在のメキシコシティにあったアステカ帝国を征服するために内陸部へと侵攻していったわけだが、その途中で、ここトラスカラを通っている。トラスカラの民族は、対立するアステカを倒すためにコルテスと同盟を結んだそだ。、彼らにとっては、自らの民族を祝う祭日であっても問題はなさそうだ。実際僕が訪れた日曜日には、高校生たちが、それぞれの民族の踊りを広場で披露していた。自らの伝統であるスペイン征服前の民族の歴史を継承しようというのは良いことだと思うのだが、いかんせん高校生の年齢の子たちが、果たして本当はどう思っているのかはわからない。ちなみに、友人の息子とその恋人も一緒だったので、そのへんを聞いて見たら、学校の必修授業になっているので、否が応でもやらざるを得ないってことだった。

tlaxcala

次に訪れたのが、メキシコ最大のピラミッドが発見されたことで有名なチュルーラだ。現在は、ピラミッド自体は地中に埋もれており、その上に教会が建っている。でも、これはスペイン人が埋めたわけではなく、それ以前に巨大なピラミッドは放置され、埋まってしまったってことらしい。
ピラミッドのある一角に、こんな看板があった。

cholula
500年 1519-2019 と大きく書いてある下には、LLA MATANZA DE CHOLULAと書いてある。
これは、虐殺500周年記念ってことだ。チョルーラの民族は、コルテスに対抗し、コルテスと同盟を結んだトラスカラの民族などと戦って、大虐殺があったのだそうだ。だから、ここでは、10月12日は民族の日ではなく、虐殺の日とされている。まあ、実際に虐殺が起こったのがいつかはしらないけれど、コロンブスがアメリカ大陸を発見しなかったら起こらなかったわけで、これも納得できる。

今回、気になったのは、以前僕がメキシコにいた頃にはなかった町の名前を立体的なアルファベットで表記しているものだった。これは、どこの街に行っても必ずあって、メキシコ政府自体が観光に力を入れている現れなのかしらんと思った。

プエブラのイタリア人2020年02月10日 10:59


chipilo

世界をあちこち旅行していると、どこにでも日本人がいるって感じるのだが、イタリア人もまた、どこにでもいる。
プエブラを訪れた際に、僕の知人たちは、僕がイタリアにいたことを知っていたので、プエブラにも多くのイタリア人がいるよと教えてくれて、Chipilo=チピロという地区に連れて行ってくれた。
そこにあった看板が上の写真だ。下には、イタリアのトレヴィソにある町セグシノと姉妹都市だと書いてある。
この地区の中心には、公園があり、その脇には教会が建っていた。公園には記念碑があり、この地区の歴史が、ヴェネト方言で書かれていた。
歴史的に見ると、イタリアが統一されたのが1861年のことで、それまではイタリアという国はなく、イタリア語も存在しなかった。ここにイタリアから移民がやってきたのは、1882年10月2日と書いてあったので、イタリア統一からおよそ20年後のことで、イタリア語はまだまだ普及途中であったのだろう。
この地区の一角にあったカフェでコーヒーを飲んだのだが、回りにいる人たちが話していたのは、イタリア語(ヴェネト語)とスペイン語が入り混じった言葉のようだった。
チピロの英語版wikipediaがここ
彼らの故郷についても日本語版のwikipediaのページがあった。
人口わずか2千人ほどにイタリア北部の田舎町から、メキシコまでやって、130年以上経った今でも、ヴェネト方言を話す人たちがいるってことに、何やら歴史の面白さを感じた。

日本とメキシコの間でも、あまり知られていたない似たような話がある。
明治維新の時に、函館の五稜郭に立てこもり、維新政府と戦った一人である榎本武揚は、自分の理想とする国の建設を夢見て、メキシコへの移民団を派遣したそうだ。
38年ほど前に、僕が初めてメキシコを訪れた際に、美人が多い街として有名だったゲレロ州の町、フチタンを訪れたことがあるのだが、その時に、ここには日本人がたくさん住んでいると現地の人が言っていて、当時は、どうしてだろうと疑問に思っていたのだが、日本に帰ってきて調べてみたら、フチタンの近くの町エスクイントラに榎本移民団が入植したという歴史が背景にあったようだ。
榎本武揚 移民団をキーワードに検索すると、いろいろと出てくる。

国立死人博物館2020年02月12日 20:28


muerto1
プエブラの次は、アグアスカリエンテスに行った。プエブラは、フォルクスワーゲンメキシコの大きな工場があり、ドイツ人も多く住んでいると聞いた。
一方、アグアスカリエンテスには、日産メキシコの工場があり、多くの日本人が住んでいるという。
もっとも、僕は、知人のメキシコ人と一緒に過ごしたので、アグアスカリエンテスで、日本人に合うことはなかった。
アグアスカリエンテスで、驚いたのは、国立死人博物館なるものがあったことだ。上の写真は、その博物館の正面で、上にスペイン語でMuseo Nacional de la mueteとある。
入り口には、巨大な頭蓋骨のオブジェがあった。

muerto2
中に入ると、歯にまつわる様々なものが展示してあった。
例えば、日本でも有名なメキシコの画家フリーダ・カロの亡くなった時の写真。

frida
あるいは、メキシコ革命の英雄、サパタの死亡した時の写真。

zapata
なんていいうのもあった。
また、メキシコでは、カタリーナと呼ばれる女性の骸骨のイメージがとても有名なのだが、それも数多く飾ってあった。

catalina
カタリーナは、アグアスカリエンテス出身の風刺画作家である、ポサーダが作り出したもので、当時のメキシコの政治批判を風刺画に託して描いた際に、生み出されたという。
日本語版のwikipediaにも彼のページがあったが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%B5%E3%83%80

カタリーナについて記載がない。
スペイン語版のwikipediaにはCatarinaの記載があった、
https://es.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Guadalupe_Posada
いずれにしても、国立の死をテーマにした博物館があるってことは驚きだった。
展示をみながら、改めて、人は皆死ぬわけだし、死を扱った博物館があっても、それはそれで当たり前なのかもしれないと変に納得した。

ミチョアカンのトゥラルプハウアへ行く2020年02月13日 19:26

現在メキシコには、プエブロス・マヒコス=魔法の町と呼ばれる、メキシコ観光局よって選出された観光資源として重要とされる町がある。
今回訪れたチョルラやヴァジェ・デ・ブラボー、メテペックなんかも含まれている。

そんな町の一つであるミチョアカン州のトゥラルプハウアへ行った。
僕を連れて行ってくれた友人たちとトルーカを出発したときは、御年90歳になる僕のホストマザーの生まれ故郷であるEl Oroって町に行ってみようってことだったのだが、途中でトゥラルプハウアの看板を見て、意外に近いようだからそっちに行ってみようってことで方針変更。なんでも、結構有名な吹きガラス細工の街だそうで、死者の日が終わり、クリスマスが近づくとともに、多くの人たちが、クリスマスデコレーション用の吹きガラス細工の飾りを買いに行くという。
メキシコ州からミチョアカン州に入ると、標高が下がったせいもあるのだろうが、植生も変化し、気温もやや暖かく感じた。
街自体は、とてもこじんまりとしていて、中央に教会があり、その広場には、クリスマス飾りを売るマーケットがあった。
街の中心部にある常設市場が会場となり、メインのマーケットが催されていた。
tlalpujahua

中に入ると、数多くの店が軒を連ねて、ガラス細工を売っていた。

esfera

esfera2
まさに、クリスマス飾り一色のマーケットだった。
結構多くのお客さんたちが、大量にクリスマス飾りを購入していた。
死者の日を祝った後は、もうクリスマスって感じで、メキシコは本当にお祭りが好きな国のようだ。
中心部の一角にあったお店に入ると、そこには、日本では絶対販売できなだろうなっていう面白いものを売っていた。

cannabis
aceite de cannabisとあるのは、マリファナオイル。gel de peyoteとあるのは、ペジョテ・ジェルだ。
peyoteとは、幻覚作用のあるサボテンの一種だ。
いずれも痛みを和らげるための塗り薬として売られていた。ちょっと買ってみたかったのだが、多分、日本に入国する時に税関でトラブルになるだろうなってことで、購入は諦めた。