17年ぶりのイタリア 2018年1月その82019年07月13日 16:59

 久しぶりに訪れたペルージャも大きく変わっていた。
 僕がペルージャ外国人大学で学んだのは1990年代初めの頃で、それから数えると25年ほどが経つことになる。
 イタリアという国は、国民性から言っても、建造物の面からも、そんなに大きく変貌しようがない国だと勝手に思い込んでいたのだが、実は違ったようだ。確かに歴史を振り返れば、ローマのフォーリ・インペリアーレは1930年代にムッソリーニが作ったわけだし、同じくファシズムの時代には、ローマ近郊に全く新しい街、エウルを作ってしまったわけだから。
 いずれにしても、国民性や昔からの構造物が変化しなくても、社会構造が変わってしまうことで、街自体も大きく変わるのだたいうことを実感した。
 インフラの面で言えば、ペルージャには新交通システムミニメトロが出来ていた。元々ペルージャには、丘の中腹の長距離バスの発着所があるパルティジャーノ広場から、街の中心部まで、エスカレータが設置されていた。初めて野外に延々と伸びるエスカレータを見た時は、日本では考えられないと思ったものだ。
 イタリア中部の街の構造は、丘のてっぺんに広場を作り、そこを中心として街が作られている。ローマ帝国以前に住んでいたエトゥルリア人たちは、丘の斜面に広がるように街を作っていたのだが、ローマ人たちは、それを作り直してしまったという。いくつかの街は、エトゥルリア人時代の構造を維持しているところもあるようだ。イタリアの古代史を勉強したわけではないので、聞きかじっただけなのだが、、、、
 話がそれたが、ペルージャも同様に丘のてっぺんに広場があり、そこにコルソ・ヴァヌッチという大通りがある。その中心部にたどり着くためには、山裾をぐるぐると回る道路で行かなければならない。エスカレーターは、そんな不便な状況を改善するために、1980年代に設置されたものだという。
 そして、2008年にミニメトロが開業している。ただ、友人たちに聞くと、距離にしても、駅の場所にしても中途半端で使いづらいと言っていた。
 そして、なんと言っても、大きく変わってしまったのは、街の中心部から多くの住民たちがいなくなってしまったことだ。これも友人たちに聞いたのだが、十年ほど前には、ペルージャはイタリア中で一番大きなヤクの売人たちの集まる街となってしまったそうで、治安が悪化し、多くの住民たちは、中心部から郊外へと引っ越してしまったそうだ。
 確かに、僕が行ったときも、かつては溢れかえるほど人々が散歩していたヴァヌッチ通りは、ガランとしていて、悲しくなるほどだった。
 僕が外国人大学に通っていた頃は、夕方になると、ファーレ・ラ・ヴァスカ(お湯に浸かりに行く)という言い方で、多くの人々が、ヴァヌッチ通りを行ったり来たりしながら、すれ違う友人たちと立ち話をしていたものなのだが、、、、
 一方で、ペルージャ近郊には、大きなショッピングセンターが立ち並び、シネマコンプレックスも出来ていて、わざわざ、車でぐるぐると坂道を登って街の中心に行かなくても、生活できてしまうようになってしまったから、ますます街の中心はガランとしてしまったという。
17年ぶりに訪れたペルージャで一番ショックだったのが、この変化だった。

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