心機一転ブログ再開2019年06月03日 11:47

 そもそもからして、ブログを再開しても、誰が読んでくれるの?っていうのはある。でも、ネットにアップするってことは、誰かしらの目に留まるかもしれないってことで、一応、前置きというか、これまでの経緯というか、以前やっていたブログを中断した理由とか、へぇーこんな人のブログなんだってことがわかるような説明は、あるに越したことはないと思うので、再開に当たって少しだけ、書いておこうと思う。
 まず最初に、このブログは、以前やっていたブログから引越ししての再開であるということだ。
以前のブログは、ここにまだ、残っている。
http://tady.seesaa.net/

 今では、ツィッターもあるし、フェイスブックもあるし、日本ではLINEが、海外の友人たちとはWhatsappがあるので、何を今更ブログなのっていう思いもあるのだけれど、大量にアップロードされ、日々流れていってしまう情報形態よりも、ある程度簡易に、過去の情報まで見ることができるブログのほうが、僕には合っているのかなと思っている。

 ネットに情報を発信するということは、なんらかの目的があって行うことだと思う。ネットを見る人たちの誰かしらに、見てもらえて、何らかの役に立つ情報を上げられればいいなぁーとは思っているが、ある意味、自己満足的なものでもあることは、否めない。だから、記事の内容も、更新頻度も、マイペースでやっていこうと思っている。

 ブログっていうのが流行りだした頃、僕もブログを書いていたことがある。上にURLを載せたけど、そのサイトは、今もまだネット上に残っていて、それを見ると2005年6月に初めて、2011年11月まで書いていた。
 ブログの更新を止めた理由は、東日本大震災と福島の原発事故にある。直接的な関わりがあったわけではないのだが、当時、災害のあまりの大きさに、無力感を抱いてしまい、どうでもいいようなことをブログに書き続けることになんとなく罪悪感を感じていたし、また、記事を書こうという意欲も無くなっていったという記憶がある。
 同時にまた、これといった変化のない日常を過ごしており、記事にするネタが枯渇しつつあったことも理由の一つだと思う。

 さて、再度ブログを書こうかなって気持ちになったのは、この間いろいろあって、自分の人生のひとつの節目を迎えたように感じるからだ。
 父親が亡くなってから20年余り同居生活をしていた母親が一昨年に他界した。僕は独身なので、母親の面倒を見るのは、同居人の僕しかいなかったってことだ。
 亡くなる前の一年ほどは、いわゆる介護退職ってやつで、仕事を止めて在宅介護を行なった。18年前、それほど重い後遺症は残らなかったものの、母親が脳梗塞で倒れたことをきっかけに、いずれ必要になると思い、介護のスキルを学ぶために、介護の仕事に転職したのだが、いざ、身内の介護を自宅で行うとなると、難しい局面もあり、全く悔いがないような介護ができたかというと、その逆で、ああしてあげればよかったとか、こうしておけばよかったのにとか、後悔の思いは残っている。
 一方で、母親の死によって、解放されたという思いもある。母親が倒れてからは、仕事の夜勤で家を空けることはあっても、海外などには出かけられる状況ではなく、日常生活は、仕事場と家の往復という状態だった。
 母親の老いとともに、認知症の初期症状が出てきてからは、更に家での家事だったり、買い物だったりにより多くの時間を割かなければならないくなっていった。
 母親の他界後、遺産相続(たいしてあるわけではなかったが)の手続きなどで、忙殺されることになったが、それが一段落したところで、久々にイタリアに言ってみようかなぁーと思い立った。
 還暦を迎えたということもある。いつまで、海外へ行く体力があるのか、少しずつ先が見えてきた感じがするのだ。
 そんなわけで、昨年は、1月初めから2月はじめにかけて、実に17年ぶりにイタリアの友人たちに会いに行ってきた。
 僕がイタリアに行ったり来たりしていた頃のことは、先のブログに書いてあるので、興味のある方は読んでみてください。

 長いブランクがあってのイタリア訪問だったので、言葉を忘れていないかとか、友人たちは、僕のことを覚えているだろうかとか、様々な不安がよぎったわけだが、とりあえず、行ってみないことには何も始まらないって思いで出かけることにした。その時の詳しい話は、おいおい書いていこうと思う。
 行ってみれば、当初の不安などこちらの思い過ごしで、言葉も友人関係も、何ら問題なく、友人たちとの再会を果たすことができた。
 調子に乗った僕は、昨年の10月にも、再度イタリアに行き、そして今年の5月もイタリアに行ってきた。
 そんな状況の中で、見聞きし、得たことをやはり日本にも伝えたほうがいいのかなぁーという思いが徐々に強くなってきて、今回のブログ再開してみようと思ったのだ。
 というわけで、実に久々のブログとなります。誰かしらの目にとまるのかなぁー。

17年ぶりのイタリア 2018年1月2019年06月08日 02:18

 昨年の1月から2月にかけて、17年ぶりにイタリアに行ってきた。  実は前年のクリスマスから行って、正月をイタリアで過ごすつもりでいたのだが、秋にギックリ腰をやってしまい。その後数カ月に渡って、左足に痺れが残り、力が入らない状態になってしまい。延期せざるを得なくなったのだ。  原因は、一昨年の春に母親がなくなり、それまで二人前作っていた食事 量が、一人になったのにもかかわらず、多いままで、食べすぎの状況が半年ほど続いた結果、体重が人生で一番重くなってしまっていて、それが腰に負荷をかけてしまったからだと思っている。  年も開け、航空券が安くなる1月の初めにイタリアに行くことにして、準備を初めたのだが、前回イタリアに行ったのが、2000年だったので、通貨はユーロに変わっているし、航空券もe-チケットになっていて、戸惑うことばかりだった。  使った航空会社は、カタール航空。中東の政治状況の中で、微妙な位置にある国だが、安全面は問題がないだろうということで、燃料サーチャージを払わなくても済む、安いフライトを選んだ。  羽田を出発して、ドーハで乗り換え、ローマのフィウミチーノ空港まで、20時間ちょっとの旅となった。  ローマの空港には、友人である母娘が迎えに来てくれていた。娘と言っても、35年前に知り合ったときは4歳だった子が、今や39歳だという。彼女は、大学で演劇を学び、狂言をテーマに卒論を書いている。大学が終わったあとの10年ほど前に、日本に来たことがあって、10年ぶりの再会となった。 (つづく)

17年ぶりのイタリア 2018年1月 その22019年06月10日 02:11

 空港からローマ市内まで車で移動し、コロッセオすぐ近くにある母親の家に居候することになった。  昔のホストマザーは、70歳を超えているのだがとても元気で、ローマ市内で一人暮らしをしていた。  実は、かつての僕のホストペアレンツは離婚していて、現在は、それぞれ別に住んでいる。   イタリアは、カトリックの影響がとても強い国で、1970年までは離婚自体が認められていなかった。離婚法が導入されたあとも、カトリック側の反対が強く、1974年の国民投票によって、ようやく離婚が確固たるものとなったという歴史があるのだが、離婚ができなかったという反動からなのか、僕の周りには、離婚家庭が多いような気がする。  ちなみに、「イタリア 離婚率」でググるとイタリアの離婚事情についての日本語記事も結構出てくる。ランキング形式で紹介しているサイトには、離婚率6位が日本で、7位がイタリアなんだそうだ。  さて、当面の居候先についてから、まずやったのは、携帯電話を手に入れることだった。日本ではスマホを使っていたのだが、全く海外に出ていなかったので、海外のsim事情がわからず、とりあえず現地についてから、手に入れればいいやってことで、格安の通話専用携帯とsimを買うことにした。元ホストマザーに相談したところ、ビットリオ広場に近い、中国人経営の携帯ショップに連れて行ってくれ、そこで購入することになった。  日本から持っていったスマホはwifiでインターネットと繋がるところなら使えたので、グーグルマップなどは、そちらを使っていた。  やはり戸惑ったのが、ユーロだ。初めて使う通貨で、コインの種類も、日常感覚としての物価もわからず、慣れるまでは大変だった。  大体どこの国に行っても、コーヒー一杯がいくら位で、新聞がいくらってことを基準に、日常感覚としての物の価値を判断したりするのだが、それでいくと、コーヒー一杯約1ユーロ、新聞が1.5ユーロなので、感覚的には1ユーロ100円ちょっと、10ユーロで千円ちょっとという感じになる。昔のリラのころを思い出すと、物価はやや上がって、日本とほぼ同じくらいみたいだった。  17ぶりのイタリアは、色々なことが変わっていた。 (つづく)

17年ぶりのイタリア 2018年1月 その32019年06月13日 20:54

 久しぶりのローマで最初にお世話になったのは、コロッセオから徒歩3分ほどの元ホストマザーの家だった。

 僕が世話になっていた35年前は、ホストファミリーの家はローマの高級住宅街であるパリオリ地区にあった。元々は、ホストファザーの母親が住んでいた家で、彼女が他界したあと、改装したもので、壁を取り払い、大きく取ったリビングには、グランドピアノが置いてあった。

 離婚後、その家は売りに出され、離婚前から夫婦で始めていたウンブリア州の農場経営の赤字補填に使われ、残りは資産分与したらしい。元ホストマザーは、そのお金で、一人娘と暮らすには充分な広さのある現在の家を買い、更にローマ大学が近くにあり、学生が多く住んでいるサン・ロレンツィオ地区に賃貸用のアパートを購入したという。

 というわけで、その家に住み始めてから、かれこれ12〜13年ほどだというが、ローマ観光の中心と言ってもいいコロッセオ周辺は、以前と比べて大きく様変わりして、住民たちの多くが家を売り、B&B(ベッド&ブレックファースト)が作られているという。

 実際、家の窓から見える向かいの建物は、B&Bに改装されていて、多くの外国人観光客が出入りしていた。

 もっとびっくりしたのは、近くにカルフール・エクスプレスという24時間営業のコンビニができていたことだ。カルフールは、フランス資本の大手小売業で、2000年に日本に進出したこともあるが、業績が振るわず撤退したことがある。

 僕の知っていたイタリアとは、土曜日日曜日は、ほとんど店が閉まっていて、夜遅くに買い物(タバコとかビールとか)をしようと思うと、バールを探すしかないというのが当たり前だったので、24時間営業のコンビニの存在には、本当にびっくりしたし、イタリア社会が大きく変化していることを実感する出来事だった。


(つづく)

多摩川サイクリングロード ピクニック橋開通2019年06月14日 18:05

 ようやく天気が良くなったので、5月に開通したという多摩川サイクリングロードの川崎側にあるピクニック橋を見に行ってきた。
 以前から、ママチャリに乗って、ラーメンを食べに行くのが趣味のようになっていたのだが、母親が亡くなる2年前、今からだと4年前、4000キロほど乗ったママチャリのタイヤがついにダメになり、内蔵6段の変速機も動かなくなってきていたので、クロスバイクを購入した。
 色々と迷ったのだが、近くにあったGiantストアーでクロスバイクの定番であるエスケープR3を購入。いわゆるスポーツバイクデビューをしたのだった。
 半年ほど乗った後、ドライブトレインをDeore(トレッキングの方)に載せ替えてもらい、1年半ほど快適に乗っていた。
 当時、母親の介護もあり、ストレス解消の意味もあり、多摩川サイクリングロードや鶴見川のサイクリングロード、境川のサイクリングロードなどを走っていた。
 クロスバイクを買ってから2年ほど経ち、これもまた定番コースではあるのだが、ロードバイクが欲しくなり、ネット通販でRaleighのCRFを購入。2年前の母親が脳梗塞の発作で倒れたその日に到着したのだった。
 今では、休日で天気がよく時間がある時は、自転車に乗って出かけるようになった。
 とは言っても、あくまでもポタリングレベルで、ヒルクライムだとか、レースにでるとかは全くやっていない。
 なるべく平で、比較的長い距離を、車の危険を避けて自転車で走るとなると、必然的にサイクリングロードを走ることになる。
 自分の年齢を考えると、ガシガシ走るよりは、健康のために走るというものだ。
 よく走っている多摩川のサイクリングロードに、新しい橋が完成したというブログの記事を先日読んだこともあり、今日、どんな感じなのかを見に行ってきたというわけだ。
 多摩川の右岸(川崎側)を上流に向かって走っていくと、だいたい登戸で左岸に移動して上流へと向かっていた。というのも、右岸側は、布田橋でどうしても車道をはしらなければなかった。大型トラックが行き交う片側1車線の狭い道路を、自転車で走るのは、かなり緊張する。そんなわけで、今までは避けていた箇所だった。
 そこに新しく(仮称)ピクニック橋というのができたという。
 今日、この橋を通って、稲城市側の多摩川のサイクリングロードを初めて走ってみた。道幅はそれほど広くはないが、左岸側にある減速用の路面の突起がなく、かなり走りやすかった。
 多摩川サイクリングロードの左岸、調布市・府中市の部分は、歩行者の安全のために作られたと思われる路面の突起がやたらと多く、自転車で走っているとかなりイライラさせられる。過去に、サイクリングロード上で、歩行者と自転車の衝突事故があり、歩行者が死亡したという事例があったそうで、そのためもあってか、とにかく突起が多くて走りづらい。
 その点、今日は知った右岸側は、道は狭いもののかなり快適に走れた。元々、そんなにスピードを出して走るわけではないので、のんびり走るには、新しく開通したピクニック橋を使って、右岸側を走るほうが気持ちが良さそうだ。
 残念ながら、是政橋を越えたとろこでサイクリングロードは途切れてしまうので、そこから咲は左岸側に移動しなければならないのだが、、、