17年ぶりのイタリア 2018年1月その6 ― 2019年07月04日 14:53
ローマにしばらく滞在した後、ウンブリア州のペルージャ近郊にある友人が経営する有機農場へ行った。
その農場がここ
http://www.torrecolombaia.it/it/
友人というのは、僕の元ホストファザーで、初めてローマで出会った35年前は、労働組合の専従職員をしていた。
当時のヨーロッパでは、米国によるNATO(北大西洋条約機構)軍へのパーシングIIと巡航ミサイルの配備が予定されており、ヨーロッパ各国で、ミサイル配備への反対運動が大きく盛り上がっていた。東西冷戦構造がまだあって、ベルリンの壁もまだあった時代のことだ。
イタリアには、シシリア島のコミゾ基地に巡航ミサイルが配備されることになっていて、それに反対する平和運動が活発な時期で、その友人も平和運動に参加していたので、一緒に平和デモに行ったり、コミゾ基地まで、ブロッケードをやりに行ったりした。この間名前を上げたルチアーナ・カステリーナも、国会議員として基地封鎖の行動に参加し、警備の警官隊から暴行を受けるという事件があったのも、その時だった。
農場を経営する友人は、ちょっと変わった経歴の持ち主で、大学はローマ教皇庁の
グレゴリアン大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
を出ているという。だいたいこの大学を出ると司祭になるのが普通らしいのだが、彼はこの大学を卒業後、1968年にアメリカに留学している。そこでアメリカの反体制運動に出会い、イタリアに帰国後は、イタリア共産党に入党したそうだ。そして、イタリアで一番大きい労働組合の専従となったらしい。
これは後から知ることになるのだが、ウンブリア州には、親から相続したかなり広大な農地を持っていたが、彼の兄にその運営を任せて、自分はローマで働いていたってことらしい。
平和運動の中からは、当然のことながら様々な運動が派生していて、非暴力直接運動だったり、有機農業だったり、エコロジー運動なども出てきたわけだ。ドイツの緑の党などを見てもわかると思う。
そんなわけで、僕の友人も、親の遺産としてあった農地を、平和運動に参加していた仲間たちと、有機農場に転換しようってことで、今の農場がスタートしたらしい。
そのきっかけのひとつのなったのが、僕の存在だったとこれも後から聞いた。僕自身は、若い頃、宇井純氏行なっていた公害原論に関わっていたり、川崎の公害反対運動に関わっていたり、三里塚に行っていたりしたこともあって、イタリアにいたときにも、環境問題の重要性について何度か話したことがあった。
当時、有機農業と言っても、マーケットがあるわけでもなく、認定団体もでき始めたばかりという状況で、農法も、シュタイナーのバイオダイナミック農法だったり、福島正信のわら一本の革命に影響を受けた自然農法だったり、マクロビオティックの影響を受けたものだったり、様々なものが混在していた。
当時、まだ離婚していなかった僕の元ホストファミリーは、ローマとウンブリアの間を行ったり来たりしながら、手探りで農場経営に乗り出したわけだが、当初は相当な問題を抱えていたらしい。
1990年代の初めに、ペルージャの外国人大学でイタリア語を学ぶために、再びホストファミリーにお世話になり、農場の片隅に居候させてもらって、大学に通ったのだが、その時は、徐々に経営が安定し始めた時期で、農場経営に四苦八苦している最初の頃は、僕もよく知らない。
後年、彼が自分の農業経験を一冊の本にまとめている。それを読んで初めて、彼の生い立ちやら農場の最初のころの苦労話などを初めて知った。
そんな長い長い関わりのある農場を久しぶりに訪れた。
(つづく)
その農場がここ
http://www.torrecolombaia.it/it/
友人というのは、僕の元ホストファザーで、初めてローマで出会った35年前は、労働組合の専従職員をしていた。
当時のヨーロッパでは、米国によるNATO(北大西洋条約機構)軍へのパーシングIIと巡航ミサイルの配備が予定されており、ヨーロッパ各国で、ミサイル配備への反対運動が大きく盛り上がっていた。東西冷戦構造がまだあって、ベルリンの壁もまだあった時代のことだ。
イタリアには、シシリア島のコミゾ基地に巡航ミサイルが配備されることになっていて、それに反対する平和運動が活発な時期で、その友人も平和運動に参加していたので、一緒に平和デモに行ったり、コミゾ基地まで、ブロッケードをやりに行ったりした。この間名前を上げたルチアーナ・カステリーナも、国会議員として基地封鎖の行動に参加し、警備の警官隊から暴行を受けるという事件があったのも、その時だった。
農場を経営する友人は、ちょっと変わった経歴の持ち主で、大学はローマ教皇庁の
グレゴリアン大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
を出ているという。だいたいこの大学を出ると司祭になるのが普通らしいのだが、彼はこの大学を卒業後、1968年にアメリカに留学している。そこでアメリカの反体制運動に出会い、イタリアに帰国後は、イタリア共産党に入党したそうだ。そして、イタリアで一番大きい労働組合の専従となったらしい。
これは後から知ることになるのだが、ウンブリア州には、親から相続したかなり広大な農地を持っていたが、彼の兄にその運営を任せて、自分はローマで働いていたってことらしい。
平和運動の中からは、当然のことながら様々な運動が派生していて、非暴力直接運動だったり、有機農業だったり、エコロジー運動なども出てきたわけだ。ドイツの緑の党などを見てもわかると思う。
そんなわけで、僕の友人も、親の遺産としてあった農地を、平和運動に参加していた仲間たちと、有機農場に転換しようってことで、今の農場がスタートしたらしい。
そのきっかけのひとつのなったのが、僕の存在だったとこれも後から聞いた。僕自身は、若い頃、宇井純氏行なっていた公害原論に関わっていたり、川崎の公害反対運動に関わっていたり、三里塚に行っていたりしたこともあって、イタリアにいたときにも、環境問題の重要性について何度か話したことがあった。
当時、有機農業と言っても、マーケットがあるわけでもなく、認定団体もでき始めたばかりという状況で、農法も、シュタイナーのバイオダイナミック農法だったり、福島正信のわら一本の革命に影響を受けた自然農法だったり、マクロビオティックの影響を受けたものだったり、様々なものが混在していた。
当時、まだ離婚していなかった僕の元ホストファミリーは、ローマとウンブリアの間を行ったり来たりしながら、手探りで農場経営に乗り出したわけだが、当初は相当な問題を抱えていたらしい。
1990年代の初めに、ペルージャの外国人大学でイタリア語を学ぶために、再びホストファミリーにお世話になり、農場の片隅に居候させてもらって、大学に通ったのだが、その時は、徐々に経営が安定し始めた時期で、農場経営に四苦八苦している最初の頃は、僕もよく知らない。
後年、彼が自分の農業経験を一冊の本にまとめている。それを読んで初めて、彼の生い立ちやら農場の最初のころの苦労話などを初めて知った。
そんな長い長い関わりのある農場を久しぶりに訪れた。
(つづく)
17年ぶりのイタリア 2018年1月その5 ― 2019年06月27日 12:30
昨年2018年は、1968年からちょうど50年に当たる年で、イタリアでは1月から、50周年記念にまつわる様々な催しが行われていた。
多くの左派系雑誌が特集を組んでいたり、68年の反体制運動とはなんだったのかを討論するセミナーなどが開かれていたのだった。
ちなみにイタリア語版のwikipediaで1968年を見てみると、月別年表の1月最初にIl Sessantottoとして別項目で解説がある。
https://it.wikipedia.org/wiki/Sessantotto
残念ながら日本語版には、この項目はないようだ。
それでも、日本語版wikipediaの1968年の項目を月を追ってみていると、この年にいかにいろんなことが起きたのかがわかる。
1月5日にプラハの春が始まり、1月29日に東大闘争が始まり、1月30日には、ベトナムでテト攻勢が始まっている。
2月26日には三里塚で農民と警官隊との衝突があり、4月4日にはマルティン・ルーザーキング牧師が暗殺され、5月にはフランスの5月革命があり、6月5日にケネディ大統領暗殺。6月25日には小笠原諸島が沖縄に先立ち日本に返還されている。
8月24日には、フランスがサハラ砂漠で水爆実験。10月にはカネミ油症事件が発生。10.21国際反戦デーで新宿駅が選挙されたのもこの年のことだ。
僕は当時10歳だったので、はっきりと記憶しているわけではないが、前年の1967年に暗殺されたチェ・ゲバラ、ケネディ暗殺、キング牧師暗殺は、後々まで伝えられている出来事だし、翌年1969年1月の東大安田講堂での機動隊と学生の攻防戦などは、テレビで見ていた記憶がある。
1968年とはそんな年だったようだ。
2018年1月に、MicroMegaというイタリアの雑誌が、68年特集特別号の発売を記念してローマ大学の大講堂で、出版記念の集まりを催したので、僕も行ってみた。
当時の学生運動のリーダーだった連中も、年を取り、大学教授になっていたり、政治家になっていたりして、当時のことをいろいろと話したのだが、多くの男性演者が昔のことを懐かしむような話をしたのに対し、ルチャーナ・カステリーナの話が一番面白かった。1968年に誕生した運動を、どうやって現在の運動に結びつけていくのかってことを中心に話をしていたからだ。
後半、カステリーナとイタリア語版ハフィントンポストの編集長(これも女性)、若者の代表(これも女性)のパネルディスカッションがあったのだけれど、これが中々に聴き応えがあって、昔のことを懐かしむのではなく、どう若い世代に伝えていくのかというルチアーナ(現在89歳くらい)と、昔のしがらみなど関係なく運動を進めている若者と、その間を取り持とうとする司会の編集長の噛み合うようでいて噛み合わないもどかしさと、互いに理解しようとする前向きな姿勢が、具体的な話の内容までははっきりと覚えていないが、イタリアにはまだこういう流れが、断ち切られずに残っているんだなと何やらちょっと嬉しくなったのを覚えている。
多くの左派系雑誌が特集を組んでいたり、68年の反体制運動とはなんだったのかを討論するセミナーなどが開かれていたのだった。
ちなみにイタリア語版のwikipediaで1968年を見てみると、月別年表の1月最初にIl Sessantottoとして別項目で解説がある。
https://it.wikipedia.org/wiki/Sessantotto
残念ながら日本語版には、この項目はないようだ。
それでも、日本語版wikipediaの1968年の項目を月を追ってみていると、この年にいかにいろんなことが起きたのかがわかる。
1月5日にプラハの春が始まり、1月29日に東大闘争が始まり、1月30日には、ベトナムでテト攻勢が始まっている。
2月26日には三里塚で農民と警官隊との衝突があり、4月4日にはマルティン・ルーザーキング牧師が暗殺され、5月にはフランスの5月革命があり、6月5日にケネディ大統領暗殺。6月25日には小笠原諸島が沖縄に先立ち日本に返還されている。
8月24日には、フランスがサハラ砂漠で水爆実験。10月にはカネミ油症事件が発生。10.21国際反戦デーで新宿駅が選挙されたのもこの年のことだ。
僕は当時10歳だったので、はっきりと記憶しているわけではないが、前年の1967年に暗殺されたチェ・ゲバラ、ケネディ暗殺、キング牧師暗殺は、後々まで伝えられている出来事だし、翌年1969年1月の東大安田講堂での機動隊と学生の攻防戦などは、テレビで見ていた記憶がある。
1968年とはそんな年だったようだ。
2018年1月に、MicroMegaというイタリアの雑誌が、68年特集特別号の発売を記念してローマ大学の大講堂で、出版記念の集まりを催したので、僕も行ってみた。
当時の学生運動のリーダーだった連中も、年を取り、大学教授になっていたり、政治家になっていたりして、当時のことをいろいろと話したのだが、多くの男性演者が昔のことを懐かしむような話をしたのに対し、ルチャーナ・カステリーナの話が一番面白かった。1968年に誕生した運動を、どうやって現在の運動に結びつけていくのかってことを中心に話をしていたからだ。
後半、カステリーナとイタリア語版ハフィントンポストの編集長(これも女性)、若者の代表(これも女性)のパネルディスカッションがあったのだけれど、これが中々に聴き応えがあって、昔のことを懐かしむのではなく、どう若い世代に伝えていくのかというルチアーナ(現在89歳くらい)と、昔のしがらみなど関係なく運動を進めている若者と、その間を取り持とうとする司会の編集長の噛み合うようでいて噛み合わないもどかしさと、互いに理解しようとする前向きな姿勢が、具体的な話の内容までははっきりと覚えていないが、イタリアにはまだこういう流れが、断ち切られずに残っているんだなと何やらちょっと嬉しくなったのを覚えている。
17年ぶりのイタリア 2018年1月 その4 ― 2019年06月17日 22:55
イタリアに行って、いつも思うのは、文化が豊かだということだ。世界遺産が世界で一番多い国だそうだが、そういう遺産ではなく、例えばローマではいつも多くの展覧会が催されている。
昨年の1月に行ったときには、3つの展覧会を見てきた。いずれも日本では中々見られないものだった。
ひとつはライカ100周年の展覧会。
ヴェネツィア広場にあるビットリオ・エマヌエレⅡ世記念堂のちょうど裏側にある、complesso del vittoriano で開催されていた。
I Grandi Maestri -100 anni di fotografia Leica-
と題された、著名な写真家たちがライカを使って撮影した写真の展覧会だった。
ライカの誕生からの変遷を辿りつつ、有名な写真が並んでいた。世界的に有名になり、今でもTシャツなどにプリントされているチェ・ゲバラの写真などもあった。
ここでその一部が見られる。sfoglia il libroってところをクリックしてみてください。
http://www.contrastobooks.com/product_info.php?products_id=800
同時期に同じ場所で開催されていたのがモネの展覧会。
パリのマルモッタン・モネ美術館の所蔵品を展示したもので、60点の作品が来ていた。晩年の日本庭園を描いた作品。も多く展示されていて、解説を読みながら、興味深く鑑賞することができた。日本だと、人気のある画家の展覧会は、人で溢れていてゆっくりと鑑賞することが中々できないのだが、ローマではそんなこともなく、むしろゆっくりしすぎて後の約束に間に合わなくなる心配があったりするのだが、そんなところもやっぱり文化的に豊かなんだなーと思うのだった。
もうひとつ、ある意味感激して見たのが、ピンク・フロイドの展覧会だった。ピンク・フロイド、デビュー50周年を記念しての大回顧展が、イギリスに次いで、ローマで開催されていた。
プログレッシブロックの代表的なバンドとして、僕が高校生の頃から聞いていたグループで、その大回顧展が奇しくもローマで開催されていたのだ。
ローマ現代アート美術館で行われた展覧会は、ピンク・フロイドの使った様々な機材も展示されおり、また手法も結構凝っていて、楽しいものだった。訪れた時は、時間があんまりなくて、ちょっと駆け足気味に見ることになったのが、残念だった。
イギリス→イタリア→ドイツ→スペインと世界を回って開催されているようで、日本に来るかどうかはまだわからない。日本に来たら再度見てみたいと思うのだが、、、
昨年の1月に行ったときには、3つの展覧会を見てきた。いずれも日本では中々見られないものだった。
ひとつはライカ100周年の展覧会。
ヴェネツィア広場にあるビットリオ・エマヌエレⅡ世記念堂のちょうど裏側にある、complesso del vittoriano で開催されていた。
I Grandi Maestri -100 anni di fotografia Leica-
と題された、著名な写真家たちがライカを使って撮影した写真の展覧会だった。
ライカの誕生からの変遷を辿りつつ、有名な写真が並んでいた。世界的に有名になり、今でもTシャツなどにプリントされているチェ・ゲバラの写真などもあった。
ここでその一部が見られる。sfoglia il libroってところをクリックしてみてください。
http://www.contrastobooks.com/product_info.php?products_id=800
同時期に同じ場所で開催されていたのがモネの展覧会。
パリのマルモッタン・モネ美術館の所蔵品を展示したもので、60点の作品が来ていた。晩年の日本庭園を描いた作品。も多く展示されていて、解説を読みながら、興味深く鑑賞することができた。日本だと、人気のある画家の展覧会は、人で溢れていてゆっくりと鑑賞することが中々できないのだが、ローマではそんなこともなく、むしろゆっくりしすぎて後の約束に間に合わなくなる心配があったりするのだが、そんなところもやっぱり文化的に豊かなんだなーと思うのだった。
もうひとつ、ある意味感激して見たのが、ピンク・フロイドの展覧会だった。ピンク・フロイド、デビュー50周年を記念しての大回顧展が、イギリスに次いで、ローマで開催されていた。
プログレッシブロックの代表的なバンドとして、僕が高校生の頃から聞いていたグループで、その大回顧展が奇しくもローマで開催されていたのだ。
ローマ現代アート美術館で行われた展覧会は、ピンク・フロイドの使った様々な機材も展示されおり、また手法も結構凝っていて、楽しいものだった。訪れた時は、時間があんまりなくて、ちょっと駆け足気味に見ることになったのが、残念だった。
イギリス→イタリア→ドイツ→スペインと世界を回って開催されているようで、日本に来るかどうかはまだわからない。日本に来たら再度見てみたいと思うのだが、、、
17年ぶりのイタリア 2018年1月 その2 ― 2019年06月10日 02:11
空港からローマ市内まで車で移動し、コロッセオすぐ近くにある母親の家に居候することになった。
昔のホストマザーは、70歳を超えているのだがとても元気で、ローマ市内で一人暮らしをしていた。
実は、かつての僕のホストペアレンツは離婚していて、現在は、それぞれ別に住んでいる。
イタリアは、カトリックの影響がとても強い国で、1970年までは離婚自体が認められていなかった。離婚法が導入されたあとも、カトリック側の反対が強く、1974年の国民投票によって、ようやく離婚が確固たるものとなったという歴史があるのだが、離婚ができなかったという反動からなのか、僕の周りには、離婚家庭が多いような気がする。
ちなみに、「イタリア 離婚率」でググるとイタリアの離婚事情についての日本語記事も結構出てくる。ランキング形式で紹介しているサイトには、離婚率6位が日本で、7位がイタリアなんだそうだ。
さて、当面の居候先についてから、まずやったのは、携帯電話を手に入れることだった。日本ではスマホを使っていたのだが、全く海外に出ていなかったので、海外のsim事情がわからず、とりあえず現地についてから、手に入れればいいやってことで、格安の通話専用携帯とsimを買うことにした。元ホストマザーに相談したところ、ビットリオ広場に近い、中国人経営の携帯ショップに連れて行ってくれ、そこで購入することになった。
日本から持っていったスマホはwifiでインターネットと繋がるところなら使えたので、グーグルマップなどは、そちらを使っていた。
やはり戸惑ったのが、ユーロだ。初めて使う通貨で、コインの種類も、日常感覚としての物価もわからず、慣れるまでは大変だった。
大体どこの国に行っても、コーヒー一杯がいくら位で、新聞がいくらってことを基準に、日常感覚としての物の価値を判断したりするのだが、それでいくと、コーヒー一杯約1ユーロ、新聞が1.5ユーロなので、感覚的には1ユーロ100円ちょっと、10ユーロで千円ちょっとという感じになる。昔のリラのころを思い出すと、物価はやや上がって、日本とほぼ同じくらいみたいだった。
17ぶりのイタリアは、色々なことが変わっていた。
(つづく)
17年ぶりのイタリア 2018年1月 ― 2019年06月08日 02:18
昨年の1月から2月にかけて、17年ぶりにイタリアに行ってきた。
実は前年のクリスマスから行って、正月をイタリアで過ごすつもりでいたのだが、秋にギックリ腰をやってしまい。その後数カ月に渡って、左足に痺れが残り、力が入らない状態になってしまい。延期せざるを得なくなったのだ。
原因は、一昨年の春に母親がなくなり、それまで二人前作っていた食事
量が、一人になったのにもかかわらず、多いままで、食べすぎの状況が半年ほど続いた結果、体重が人生で一番重くなってしまっていて、それが腰に負荷をかけてしまったからだと思っている。
年も開け、航空券が安くなる1月の初めにイタリアに行くことにして、準備を初めたのだが、前回イタリアに行ったのが、2000年だったので、通貨はユーロに変わっているし、航空券もe-チケットになっていて、戸惑うことばかりだった。
使った航空会社は、カタール航空。中東の政治状況の中で、微妙な位置にある国だが、安全面は問題がないだろうということで、燃料サーチャージを払わなくても済む、安いフライトを選んだ。
羽田を出発して、ドーハで乗り換え、ローマのフィウミチーノ空港まで、20時間ちょっとの旅となった。
ローマの空港には、友人である母娘が迎えに来てくれていた。娘と言っても、35年前に知り合ったときは4歳だった子が、今や39歳だという。彼女は、大学で演劇を学び、狂言をテーマに卒論を書いている。大学が終わったあとの10年ほど前に、日本に来たことがあって、10年ぶりの再会となった。
(つづく)
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