プエブラのイタリア人2020年02月10日 10:59


chipilo

世界をあちこち旅行していると、どこにでも日本人がいるって感じるのだが、イタリア人もまた、どこにでもいる。
プエブラを訪れた際に、僕の知人たちは、僕がイタリアにいたことを知っていたので、プエブラにも多くのイタリア人がいるよと教えてくれて、Chipilo=チピロという地区に連れて行ってくれた。
そこにあった看板が上の写真だ。下には、イタリアのトレヴィソにある町セグシノと姉妹都市だと書いてある。
この地区の中心には、公園があり、その脇には教会が建っていた。公園には記念碑があり、この地区の歴史が、ヴェネト方言で書かれていた。
歴史的に見ると、イタリアが統一されたのが1861年のことで、それまではイタリアという国はなく、イタリア語も存在しなかった。ここにイタリアから移民がやってきたのは、1882年10月2日と書いてあったので、イタリア統一からおよそ20年後のことで、イタリア語はまだまだ普及途中であったのだろう。
この地区の一角にあったカフェでコーヒーを飲んだのだが、回りにいる人たちが話していたのは、イタリア語(ヴェネト語)とスペイン語が入り混じった言葉のようだった。
チピロの英語版wikipediaがここ
彼らの故郷についても日本語版のwikipediaのページがあった。
人口わずか2千人ほどにイタリア北部の田舎町から、メキシコまでやって、130年以上経った今でも、ヴェネト方言を話す人たちがいるってことに、何やら歴史の面白さを感じた。

日本とメキシコの間でも、あまり知られていたない似たような話がある。
明治維新の時に、函館の五稜郭に立てこもり、維新政府と戦った一人である榎本武揚は、自分の理想とする国の建設を夢見て、メキシコへの移民団を派遣したそうだ。
38年ほど前に、僕が初めてメキシコを訪れた際に、美人が多い街として有名だったゲレロ州の町、フチタンを訪れたことがあるのだが、その時に、ここには日本人がたくさん住んでいると現地の人が言っていて、当時は、どうしてだろうと疑問に思っていたのだが、日本に帰ってきて調べてみたら、フチタンの近くの町エスクイントラに榎本移民団が入植したという歴史が背景にあったようだ。
榎本武揚 移民団をキーワードに検索すると、いろいろと出てくる。

2018年 イタリア 10月編 その22019年08月06日 09:43

rats & star
 2018年10月3日にローマに到着して、前回と同様にコロッセオ近くの友人の家に居候する。
 10月7日のペルージャ−アッシジ平和行進の前に、少しだけローマ市内を回った。
 この時行われていたのが、「アンディ・ウォーホル展」だった。
 僕の若い頃、日本でも彼の展覧会が開催されたことがあり、エンパイアステートビルをひたすら映し続けるって映画を見たことがある。全く意味はわからなかったけれど、、、
 2018年は、彼の生誕90周年ってこともあって、この展覧会が企画されたらしい。
 有名なキャンベルスープ缶とかリズ・テーラーとか、毛沢東やレーニンの肖像があり、ミック・ジャガーのものもあった。そんな中で、びっくりしたのは、日本のラッツ・アンド・スターのレコードジャケットをウォーホールが手がけていたってことだった。

2018年 イタリア 10月編2019年07月30日 20:41

 2018年1月に17年ぶりにイタリアを訪問し、既に関係性も切れているだろうし、言葉もかなり忘れているだろうと思っていたのだが、さにあらず、多くの友人たちが僕のことを覚えてくれていて(逆に僕のほうが忘れていた人たちもいたりした)、言葉も思いの外忘れていなくて(これはひとえにインターネットのおかげでもあるのだが)、すっかり味をしめてしまった僕は、同じ年の10月に再度イタリアを訪問してしまった。
 このときの主な目的は、ペルージャーアッシジの平和行進に参加することだった。
 アッシジは、聖フランチェスコ(日本ではフランシスコが一般的かも、英語で表記するればサン・フランシスコとなるわけだが)の生まれた街で、彼が設立したフランシスコ修道会は、日本でも知られていると思う。
 キリスト教のカトリックの中でも、フランシスコ修道会の位置は、ある意味独特で、清貧の思想がよく知られている。ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」などにも登場している。
 フランチェスコは、鳥や花と話が出来たという話もあり、平和主義者でエコロジストだったなどと言われている。
 そして、ペルージャは、イタリアで最初にガンジーの非暴力運動をもたらした言われているアルド・カピティーニが生まれた街である。
 1961年にアピティーが、ペルージャーアッシジ間の最初の平和行進を行なっている。
 それ以来、数年おきに反戦平和の非暴力平和行進として、ペルージャーアッシジ平和行進は行われてきた。
 僕が最初に参加したのは、1985年の行進だったと思う。当時は、ヨーロッパに米軍のパーシングIIミサイルと巡航ミサイルが配備されることになっていて、軍拡競争反対をメインテーマとして平和行進が行われたと記憶している。イタリア全土から多くの人々が集まり、ペルージャからアッシジまでの24キロほどの道のりを行進したわけだが、イタリア語を覚えたての僕は、最後尾から一番最初までをどんな人たちがいるのか興味津々で、急ぎ足で歩いたのだが、それぞれのグループで交わされるイタリア語の方言を耳にして、自分が学んでいる標準イタリア語と随分と違うのだなぁと思った記憶がある。

 2018年10月7日に、第23回平和行進が行われるということを知って、久しぶりに是非参加してみたいと思ったのが、同じ年に2度もイタリアに行くことになるきっかけだった。

17年ぶりのイタリア 2018年1月その82019年07月13日 16:59

 久しぶりに訪れたペルージャも大きく変わっていた。
 僕がペルージャ外国人大学で学んだのは1990年代初めの頃で、それから数えると25年ほどが経つことになる。
 イタリアという国は、国民性から言っても、建造物の面からも、そんなに大きく変貌しようがない国だと勝手に思い込んでいたのだが、実は違ったようだ。確かに歴史を振り返れば、ローマのフォーリ・インペリアーレは1930年代にムッソリーニが作ったわけだし、同じくファシズムの時代には、ローマ近郊に全く新しい街、エウルを作ってしまったわけだから。
 いずれにしても、国民性や昔からの構造物が変化しなくても、社会構造が変わってしまうことで、街自体も大きく変わるのだたいうことを実感した。
 インフラの面で言えば、ペルージャには新交通システムミニメトロが出来ていた。元々ペルージャには、丘の中腹の長距離バスの発着所があるパルティジャーノ広場から、街の中心部まで、エスカレータが設置されていた。初めて野外に延々と伸びるエスカレータを見た時は、日本では考えられないと思ったものだ。
 イタリア中部の街の構造は、丘のてっぺんに広場を作り、そこを中心として街が作られている。ローマ帝国以前に住んでいたエトゥルリア人たちは、丘の斜面に広がるように街を作っていたのだが、ローマ人たちは、それを作り直してしまったという。いくつかの街は、エトゥルリア人時代の構造を維持しているところもあるようだ。イタリアの古代史を勉強したわけではないので、聞きかじっただけなのだが、、、、
 話がそれたが、ペルージャも同様に丘のてっぺんに広場があり、そこにコルソ・ヴァヌッチという大通りがある。その中心部にたどり着くためには、山裾をぐるぐると回る道路で行かなければならない。エスカレーターは、そんな不便な状況を改善するために、1980年代に設置されたものだという。
 そして、2008年にミニメトロが開業している。ただ、友人たちに聞くと、距離にしても、駅の場所にしても中途半端で使いづらいと言っていた。
 そして、なんと言っても、大きく変わってしまったのは、街の中心部から多くの住民たちがいなくなってしまったことだ。これも友人たちに聞いたのだが、十年ほど前には、ペルージャはイタリア中で一番大きなヤクの売人たちの集まる街となってしまったそうで、治安が悪化し、多くの住民たちは、中心部から郊外へと引っ越してしまったそうだ。
 確かに、僕が行ったときも、かつては溢れかえるほど人々が散歩していたヴァヌッチ通りは、ガランとしていて、悲しくなるほどだった。
 僕が外国人大学に通っていた頃は、夕方になると、ファーレ・ラ・ヴァスカ(お湯に浸かりに行く)という言い方で、多くの人々が、ヴァヌッチ通りを行ったり来たりしながら、すれ違う友人たちと立ち話をしていたものなのだが、、、、
 一方で、ペルージャ近郊には、大きなショッピングセンターが立ち並び、シネマコンプレックスも出来ていて、わざわざ、車でぐるぐると坂道を登って街の中心に行かなくても、生活できてしまうようになってしまったから、ますます街の中心はガランとしてしまったという。
17年ぶりに訪れたペルージャで一番ショックだったのが、この変化だった。

17年ぶりのイタリア 2018年1月その72019年07月07日 16:29

 イタリアの緑のハートと呼ばれるウンブリア州のペルージャ近郊に農場はある。以前は、今の農場の他にもいくつかの土地があったらしいが、メインの農場の経営がうまく行かずに、売却してしまったという。
 それでも、160ヘクタールの農場が残っていて、そのうち60ヘクタールが農地として耕作されており、100ヘクタールは森となっている。
 訪れたのが冬だったこともあり、農地には緑はなく、森も静かなものだった。秋に訪れるときのこ狩りができたりするのだが、、、
 でも、冬のいいところは、暖炉に火を入れることができること。
 農場には、農業部門とアグリツーリズモ部門があって、農業部門の中心は、農場の名前の由来ともなっているTorre(塔)の近くに新たに建設した農産物を貯蔵しておく倉庫の一角が事務所になっていて、そこに置かれている。塔自体は、下部の一部を改修修復して、友人の住居となっているが、まだ修復途中だった。
 友人が書いた本によると、この塔は、かつてベネディクト派の修道院として使われていたらしい。
 アグリツーリズモ部門の中心はチェレットと呼ばれる昔の農家を修復した建物に置かれている。二階建てのかなり大きな建物の下部は、かつては馬小屋として使われていたそうだが、全面的に改修して今は食堂となっている。もう30年近く前になるはずだが、この建物を改修しているときにも訪れたことがあり、床のタイル張りなどを手伝った記憶がある。
 その食堂の真ん中に、大きな暖炉があり、冬場はそこにマキを積み上げて火をつけ、暖を取る。
 もちろん各部屋には、テレモシフォーネと呼ばれるお湯を循環する暖房装置がついているのだが、広い食堂はなかなか温まらないし、それに火を見ること自体が楽しみでもある。
 僕が訪れた時期は、クリスマスも新年も終わったあとで、アグリツーリズモにはお客さんはいなかった。
 それが幸いしたというわけでもないのだが、イタリアの友人たちが、その農場で歓迎パーティーを開いてくれた。泊りがけでローマから来てくれた友人たちも多かった。
 中には、30年ぶりで会う友人たちもいて、お互いに歳を重ね、みんないいおじさんおばさんになっていたが、実に暖かく迎えてくれた。
 そのときに撮った集合写真が、後に新たな再会のきっかけとなるのだが、それはまた後で。